長船よもやまばなし 『立神に巨大なドックを』
長崎製鐵所(造船所の前身)は修繕工場であって船を造る設備はなかった。製鐵所完成(文久元(1861)年3月)が間近になった同
年2月、大型艦船の建造を長崎でやるように指示があり、大型艦船を建造すべく立神ドック建設を計画した。しかし文久3(1863)
年に攘夷勅命が出されるとドック建設に雇用されていたオランダ人は長崎を去ってしまう。
造成工事が始まったのは、指示を受けてから3年後の元治元(1864)年1月のことである。翌年慶應元(1865)年7月に造成工事が完了し次はドックの建設という段階になった。しかし、同年12月、江戸より工事いったん中止の指示があり、翌、慶應2年(1866)8月に正式に取りやめと決定された。
長崎は江戸からあまりに遠く、莫大な建設費用は、江戸近くに建設中の横須賀製鐵所(慶応元年9月着工)に使うことにしたためで
ある。「横須賀製鐵所が完成したら内外からの船はみな横須賀を使う。長崎は有名無実の場所になる」との江戸の評価であった。
平野冨二などの乾ドック築工建議などもあり立神ドックの建設が再開されたのは、下記「よもやま話」にあるように、江戸幕府の
中止命令から4年後、明治政府になってからである。 「牧浦記」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



年2月、大型艦船の建造を長崎でやるように指示があり、大型艦船を建造すべく立神ドック建設を計画した。しかし文久3(1863)
年に攘夷勅命が出されるとドック建設に雇用されていたオランダ人は長崎を去ってしまう。
造成工事が始まったのは、指示を受けてから3年後の元治元(1864)年1月のことである。翌年慶應元(1865)年7月に造成工事が完了し次はドックの建設という段階になった。しかし、同年12月、江戸より工事いったん中止の指示があり、翌、慶應2年(1866)8月に正式に取りやめと決定された。
長崎は江戸からあまりに遠く、莫大な建設費用は、江戸近くに建設中の横須賀製鐵所(慶応元年9月着工)に使うことにしたためで
ある。「横須賀製鐵所が完成したら内外からの船はみな横須賀を使う。長崎は有名無実の場所になる」との江戸の評価であった。
平野冨二などの乾ドック築工建議などもあり立神ドックの建設が再開されたのは、下記「よもやま話」にあるように、江戸幕府の
中止命令から4年後、明治政府になってからである。 「牧浦記」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


